死後の世界なんて存在しない。そう言い切れる理由
今回は番外編。いつも外国の事ばかり話している当ブログですが、今回は海外でも国内でもなく、あの世の話です。
いや、正確に言うと「あの世なんて存在しない」っていう話ですね。
寝る前とかに読むと、眠れなくなるかもしれないのでご注意くださいw
仏教の教えでは死後の世界は“ある”らしい
よくお葬式とかで、お寺の人に来てもらって念仏を唱えてもらったりしますよね。
その時によくお寺の人がこう言います。
「〇〇さんは極楽浄土に向かって旅を続けていてなんちゃらかんちゃら・・」
人は死んだあと極楽浄土に行くという話。
仏教の教えでは死後の世界は存在する事になってるんですね。
彼ら仏教徒からすると、生きている今の状態がイレギュラーなことで、むしろ極楽浄土の方が地元みたいな感じだとか。すごい話です。
昔の人が一生懸命悩んで考えたんでしょう。
夜寝る前とかに「なぜ自分は生きてるんだろう?なぜ自分はいつか死ぬんだろう?」とか考えはじめちゃったんでしょうね。で、宗教を立ち上げるに至ったと。
確かに生きる・死ぬっていうのは不思議なことです。理由を考え出したらキリがない。
親戚がクモ膜下出血になってわかった事
でも僕が思うのは、仏教のそれとは全く間逆です。
題名にも書いたように死後の世界なんてないです。
なぜそう言い切れるかというと、死んだら脳みその中に入っている記憶は全部なくなってしまうから。
単に思い出とかが全部なくなるだけじゃないですよ。その人の物の考え方や人格だって全部消えてなくなります。
クモ膜下出血などで、脳みそが一部機能停止した人に会ったことありますか?
僕の死んだおばあちゃんがその一人でした。
おばあちゃんは亡くなる2年ぐらい前に、クモ膜下出血で脳みその一部が機能停止状態になったんです。
一部が止まってしまったぐらいなら、少し物忘れがひどい程度かな?と思うでしょ?でも実際に会ってみると全然違いました。
まったくの別人になってたんです。
赤ちゃんみたいな感じで、自分が誰なのか、目の前にいる人が誰なのかもよくわかってないみたいでした。
あの時はほんとに不思議でしたよ。おばあちゃんは死んでないのに、もう僕の知ってるおばあちゃんには会えない。
おばあちゃんのあの人格はどこへ行ってしまったのか?今この身体に宿ってるおばあちゃんは誰なのか?
その時に僕は思ったんですね。
人間は脳みそが全て。魂なんか宿ってない。
自分と言う人格はすべて脳みその中に収納されていて、それが機能停止したら全ておしまい。
死んだ後は、自分が死んだことを認識することもできないし、死んだという意味もわからない。
ましてや死後の世界なんてあるわけないです。
“無”を認識することもできない
だから逆に言うと「完全なる無の世界」なんてのもないと思います。
よく死んだあと人間は、永遠につづく無の世界を彷徨うみたいな事言いません?
そんな世界ないですよ。“無”というのを認識する脳みそがありません。
だから無の世界がヒマでヒマでしょうがないみたいな事もないでしょう。
まとめ
今回の話を短くまとめると
- 人間は脳みそが全て。魂なんか宿ってない
- 脳みそに格納されてる記憶(人格)は死んだらすぐに消えてしまう
- 死後の世界があったとしても脳みそがないので、それを認識する事はできない
そんな感じでしょうか。
「死後」に関しては↓の記事も読んでみて下さい。
死後の世界については「エベン・アレクサンダー医師の臨死体験」という本に衝撃的な事が書かれているので、興味ある方ご一読ください。
レビュー読むだけでも面白いですよ。
以上、死後の世界なんて存在しないという僕の持論でした。